カウンター 2015/12/05
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主なロシア内戦の範囲
内戦と干渉戦
 ロシア内戦は、1917年から1922年にかけて、旧ロシア帝国領で争われた内戦である。


戦力


赤軍の軍旗
赤軍の戦力
(共産主義者・十月革命側・革命を支持する労働者、農民、兵士など無産階級):300万人以上
黒軍:10万3千人(農民中心のウクライナ革命蜂起軍)
指導者・指揮官
ウラジーミル・レーニン
レフ・トロツキー
ミハイル・トゥハチェフスキー
ミハイル・フルンゼ
ネストル・マフノ



白軍の軍旗
白軍の戦力
(ロシア右派、共和主義者、君主主義者、保守派、反革命の自由主義者など有産階級):240万人
連合軍介入:25万5千人(アメリカ、イギリス、カナダ、イタリア、日本など。日本は干渉軍最大の兵力7万3,000人)
指導者・指揮官
アレクサンドル・コルチャーク
ラーヴル・コルニーロフ
アントーン・デニーキン
ピョートル・ヴラーンゲリ
ニコライ・ユデーニチ


死傷者
■赤軍:約121万人以上
■白軍:約1,500万人以上



 内乱は主に赤軍(共産主義者・十月革命側・革命を支持する労働者、農民、兵士など無産階級)と白軍(ロシア右派、共和主義者、君主主義者、保守派、自由主義者など有産階級)の間で戦われた。
 ウクライナなど、地域によってはこれら両者に、ボリス・サヴィンコフなどの率いる緑軍(社会革命党系、農民パルチザン)や、ネストル・マフノ率いる黒軍(アナーキスト)、さらには民族主義者が参加する場合もあった。
 白軍には英仏日米などの協商国(赤軍側からは「干渉国」と呼ばれる)が直接、間接に支援を行っていた。

 白軍側は複数の兵力が別個に蜂起しており、連携は見られなかった。この中には、チェコ軍団、ポーランド第5ライフル師団、親ボリシェヴィキのラトビアライフル大隊などがあった。

 実際に戦闘が行われた前線は、北西、南方、そして東方の3戦線に分けることができる。その期間についても3期で構成されている。

 第一期は十月革命勃発からブレスト=リトフスク条約による休戦までを指す。この期間は、ドン川流域一帯で形成した白軍との間で戦闘が生じ、さらに東部ではサマーラの憲法制定議会議員委員会とオムスクの民族主義者政権の2つの政権が誕生していた。
 白軍側は複数の兵力が別個に蜂起しており、連携は見られなかった。この中には、チェコ軍団、ポーランド第5ライフル師団、親ボリシェヴィキのラトビアライフル大隊などがあった。

 第二期は内戦の鍵を握った期間で、1919年の3月から11月にかけてである。南方からデニーキン指揮する白軍、北西からはユデーニチ軍が、そして東にはコルチャークが勢力を拡大し、それぞれモスクワ・ペトログラードへと向かって進撃していた。
 しかしトロツキーにより編成された赤軍により6月にコルチャークが、10月にはデニーキンとユデーニチがそれぞれ押し返された。11月中頃までコルチャークとデニーキンの部隊はほぼ四散していた。
 第三期はクリミア半島を舞台にした白軍の最後の戦いである。ヴラーンゲリ将軍がデニーキンの敗残兵をまとめ、クリミア半島に立てこもった。しかし、ポーランド・ソビエト戦争が終了すると、全勢力をこの方面へ集中することが可能になった赤軍が白軍を圧倒するようになり、1920年11月に内戦は終了した。


赤軍勝利の要因

 ボリシェヴィキはロシアの人口稠密地帯を支配しており、1921年には数百万人もの兵士を徴兵により募兵することが可能であった。 それに対し白軍の兵力が25万人を超えることはなかった。ボリシェヴィキの支配地域にはロシアにおける主要工業地域が含まれており、武器の供給においても圧倒的な有利にあった。
 鉄道の路線も赤軍が支配しており兵士・装備の輸送を効率的に行えた一方で、白軍は互いに分断され、政治的、民族的に見ても統合される可能性はほとんどなかった。加えて白軍の司令官は帝政時代の貴族や地主が大半であり、彼らは占領地で旧体制の復活を望み農民から土地を取り上げたため民衆からの支持を失った。

 もう一つの要因は、赤軍の規律と指導力が白軍にまさっていたことである。レフ・トロツキーはブレスト=リトウスク条約調印後の1918年に軍事担当の人民委員に任命された。彼は優れた演説家であるだけでなく、赤軍の組織化にも才能を発揮した。

 コルニーロフによる反乱の際に暫定政府によって組織化された赤衛軍を基として、徴兵により赤軍を作り上げた。彼は列車を駆使し各地を回り赤軍の士気を高めることに成功した。

 彼の取り決めた規律は厳格を極め脱走兵は直ちに射殺された。軍の忠誠を維持するためにボリシェヴィキの任命する政治将校が設けられるようになった。トロツキー自身は軍事作戦に直接関与せず、赤軍に参加していた75,000人もの士官たち、その多くは職業軍人が白軍との戦闘を指揮した。
シベリア出兵


 シベリア出兵(英: Siberian Intervention)とは、1918年から1922年までの間に、連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリアに出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争の一つ。


 日本は、干渉軍最大の兵力7万3,000人(総数)と、4億3,859万円から約9億円(当時)という巨額の戦費を投入。3,333人から5,000人の死者を出し撤退した。アメリカが7,950人、イギリスが1,500人、カナダが4,192人、イタリアが1,400人の兵力を投入。
 ソビエト・ロシア側の兵力・死者・損害は現在まで不明(後述する1920年「四月四・五事件」だけでも5,000名以上が殺害されたとされる)。また別資料では、死傷者8万人、6億ルーブル以上の被害とされる。

 第一次世界大戦でヨーロッパは、ドイツ帝国・オーストリア・ハンガリー帝国などの同盟国と、フランス・ロシア帝国・イギリスなどの協商国が争っていた。戦争が長期化するにつれ、近代化の遅れていたロシアは敗走を重ね、経済は破綻した。1917年2月に2月革命、11月にはレーニンの指導するボリシェヴィキにより世界最初の社会主義革命である10月革命が起き、1918年に帝国は崩壊した。
 ボリシェヴィキ政権は単独でドイツ帝国と講和条約(ブレスト・リトフスク条約)を結んで戦争から離脱した。このため、ドイツは東部戦線の兵力を西部戦線に集中することができ、フランス・イギリスは大攻勢をかけられて苦戦した。連合国はドイツの目を再び東部に向けさせ、同時にロシアの革命政権を打倒することも意図した干渉戦争を開始し、ロシア極東のウラジヴォストークに「チェコ軍捕囚の救出」を大義名分に出兵した。

 すでに西部戦線で手一杯になっているイギリス・フランスに大部隊をシベリアへ派遣する余力はなかった。そのため必然的に地理的に近く、本大戦に陸軍主力を派遣していない日本とアメリカに対して、シベリア出兵の主力になるように打診した。日本政府のシベリア出兵に対する態度は、出兵という点では一致していた。しかし積極的な出兵論と消極的なそれの2つが存在し対立していた。
 積極的な出兵論とは、イギリスおよびアメリカの考え方に関係なく日本は主体的かつ大規模に出兵を断行せよという立場である。これが参謀本部および外相本野一郎ならびに内相後藤新平達の出兵論である。対して、これと比較するとやや消極的な出兵論すなわち対米協定の出兵論が、元老山県有朋および憲政会総裁の加藤高明ならびに立憲政友会総裁の原敬達によって唱えられた。対米協定にもとづく妥協案が形成され、出兵に踏み切った。

シベリア出兵絵図 (救露討独遠征軍画報 其一)
日本浦塩派遣軍のヴラヂヴォストク上陸 (出典)ロシア革命の貨幣史


経過

 アメリカは1918年の夏に出兵を決定した。上記のようにアメリカと共同歩調を取ることを明言していた日本もこれにあわせて出兵を決定し、連合軍はウラジヴォストークに上陸した。連合軍の中核であるイギリスやフランスは西部戦線に兵力を割かれていたのでそれ程兵力は多くなく、兵力の大半は日本やアメリカの軍隊であった。
 1918年11月にドイツ帝国で革命が起こって停戦すると、連合国はシベリア介入の目的を失い、1920年には相次いで撤兵したが、日本軍は単独で駐留を続行した。
 日本陸軍は当初のウラジヴォストークより先に進軍しないという規約を無視し、ボリシェヴィキが組織した赤軍や労働者・農民から組織された非正規軍たるパルチザンと戦闘を繰り返しながら、北樺太、沿海州や満州を鉄道沿いに侵攻。
 シベリア奥地のバイカル湖東部までを占領し、最終的にバイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大した。各国よりも数十倍多い兵士を派遣した。
 各国が撤退した後もシベリア駐留を続けたうえ、占領地に傀儡国家の建設を画策。日本はロシアのみならず、イギリスやアメリカ、フランスなどの連合国からも領土的野心を疑われた。


日本「パルチザン(ゲリラ)戦争」



 1919年1月から、労働者・農民などで組織されたパルチザンによる遊撃戦に苦戦。次第に交通の要所を確保するのが精一杯の状態に陥った。日本軍はパルチザンが潜む村落の掃討を行なった。
 1919年2月中旬、歩兵第十二旅団長山田四郎少将は「師団長の指令に基き」次のような通告を発している。

 『第一、日本軍及び露人に敵対する過激派軍は付近各所に散在せるが日本軍にては彼等が時には我が兵を傷け時には良民を装い変幻常なきを以て其実質を判別するに由なきに依り今後村落中の人民にして猥りに日露軍兵に敵対するものあるときは日露軍は容赦なく該村人民の過激派軍に加担するものと認め其村落を焼棄すべし
 またウラジヴォストーク派遣軍政務部長松平恒雄の内田外相宛の電報「別電一五九号」には次のように記されている。
 『最近州内各地に於いて過激派赤衛団は現政府及日本軍に対し州民を煽動し向背常なく我軍隊にして其何れが過激派にして何れが非過激派なるかの識別に苦ましめ秩序回復を不可能ならしめつつあるが斯くの如き状態は到底之を容すべからざるものと認め全黒竜州人に対し左の通り通告す一、各村落に於て過激派赤衛団を発見したる時は広狭と人口の多寡に拘らず之を焼打して殲滅すべし
 同年1月アムール州「マザノヴォ」という村で日本軍「現地守備隊」の掃討作戦に耐えかねたパルチザンが蜂起し、近隣の村落も巻き込んで大規模な戦闘が始まった。
 
 日本軍は零下42℃という過酷な気象条件のため撤兵、村は一時赤軍パルチザンにより解放された。しかし「守備隊長マエダ大尉(前田多仲大尉)の率いる討伐隊が再度来襲し、道すがら手当たりしだい村々を焼き、農民を虐殺し、蜂起民が逃げ散った「マサノヴォ」を再占領。さらに「ソハチノ」という近隣の村に到着するや、女子供も含む逃げ遅れた村民全てを銃殺し、村を徹底的に焼き払った。

 この内、日本軍の『出兵史』に『同地には我が守備隊よりの掠奪品を隠匿しありしを以て懲膺の為過激派に関係せし同村の民家を焼夷せり』とあり、掠奪、ゲリラ作戦への懲膺として関係民家を焼夷したことは記されている。

 同年2月13日インノケンチェフスカヤ村における掃討作戦で、「同日第12師団第3大隊第8中隊は同村を早暁襲撃し、パルチザンが逃亡したのち、女子供を含めた無抵抗の村民をパルチザンのシンパとみなして手当たり次第に刺殺・銃殺し、他方で将校や下士官は日本刀による据え者切りなどを行った。
 その後、物品略奪・食料徴発・家屋放火などの蛮行を行った」とし、「組織的な虐殺・略奪はパルチザンに対する報復措置であると同時に、敵愾心にももとづく」とする意見がある。

 また同年3月22日にはイワノフカ村「過激派大討伐」を敢行(イワノフカ事件)。同村はもともとボリシェヴィキ派の勢力が強く、反革命派の武装解除要求にも従わなかった。そこでロシアの反革命派は日本軍の応援を頼み、この村を強制的に捜索し、武器の押収、革命分子の逮捕・銃殺を行った。

 しかしこうした抑圧政策は村民を憤激させ、逆にボリシェヴィキ派勢力をより深く浸透させる結果となり、この情勢を察知した日本軍「討伐部隊」は1919年2月25日に襲撃を再開したが、地形を熟知したパルチザン部隊によって追い詰められ、田中勝輔少佐率いる歩兵第72連隊第三大隊は同月26日「最後の一兵に至るまで全員悉く戦死」したとされる。

 アムール州中部地方第12師団歩兵第12旅団(師団長大井成元中将)は不名誉な敗北の汚名をそそぐべく「過激派大討伐」作戦を敢行。しかしパルチザンに対する作戦は失敗した。そこで同旅団は「村落焼棄」へと作戦を変更。

 ウラジヴォストーク派遣軍政務部が事件後村民に対して行なった聞き取り調査にもとづく報告書の一節には、
本村が日本軍に包囲されたのは三月二十二日午前十時である。其日村民は平和に家業を仕て居た。
 初め西北方に銃声が聞へ次で砲弾が村へ落ち始めた。凡そ二時間程の間に約二百発の砲弾が飛来して五、六軒の農家が焼けた。村民は驚き恐れて四方に逃亡するものあり地下室に隠るるもあった。間もなく日本兵と『コサック』兵とが現れ枯草を軒下に積み石油を注ぎ放火し始めた。
 女子供は恐れ戦き泣き叫んだ。彼等の或る者は一時気絶し発狂した。男子は多く殺され或は捕へられ或者等は一列に並べられて一斉射撃の下に斃れた。絶命せざるもの等は一々銃剣で刺し殺された。
 最も惨酷なるは十五名の村民が一棟の物置小屋に押し込められ外から火を放たれて生きながら焼け死んだことである。殺された者が当村に籍ある者のみで二百十六名、籍の無い者も多数殺された。焼けた家が百三十戸、穀物農具家財の焼失無数である。
 此の損害総計七百五十万留(ルーブル)に達して居る。孤児が約五百名老人のみ生き残って扶養者の無い者が八戸其他現在生活に窮して居る家族は多数である
』とある。

 翌年2月、同州にソビエト権力が復活すると同村において州都ブラゴヴェシチェンスクの某新聞社が再度調査を行なった。
 この結果、死者総数は291名(内中国人6名を含む)で、その中には1歳半の乳飲み子から96歳の老人まで含まれていたとされる(『赤いゴルゴタ』)。

 こうした作戦が招いた惨禍の中、1919年秋連合国が後押しをしていた反革命派のアレクサンドル・コルチャーク政権は赤軍との戦闘において敗北が決定的となり、1920年に崩壊。日本政府内にも白軍凋落を期に撤退機運が強まった。


(参考資料)Wikipedia

シベリア出兵絵図 (救露討独遠征軍画報 其十六)
日本軍のブラゴヴェシチェンスク占領 (出典)ロシア革命の貨幣史

 ロシア側の記録では、この干渉によって、ロシアの極東地域では8万人以上の住民が殺され、6億ルーブル以上の被害があったという。
 「シベリア出兵」 での日本の戦費9億円、参加将兵の総数約24万、戦死者約5,000名、負傷者約2,600名といわれている。

 当時、日本の国家予算規模 (一般会計歳出額) は、5億8,000万円 (大正4(1915)年)~14億3,000万円 (大正11(1922)年) であった。 1金ルーブルは約1円3銭 (当時)。

ウラジーミル・レーニン
ソビエト連邦 初代最高指導者

 ウラジーミル・イリイチ・レーニン(1870年4月22日~1924年1月21日)は、ロシアの革命家、政治家。優れた演説家として帝政ロシア内の革命勢力をまとめ上げ、世界で最初に成功した社会主義革命であるロシア革命において主導的な役割を果たした。
 
 史上初の社会主義国家であるソビエト連邦およびソ連共産党(ボリシェヴィキ)の初代指導者を務めた。マルクス主義(共産主義)理論の研究と普及にも尽力し、後日、マルクス・レーニン主義という体系にまとめられた。本名はウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ。ロシア社会民主労働党、ロシア共産党(ボリシェヴィキ派)党首。


「死去」
 レーニンは暗殺未遂の後遺症、戦争と革命の激務によって次第に健康を害していき、1922年3月頃から一過性脳虚血発作とみられる症状が出始める。

 5月に最初の発作を起こして右半身に麻痺が生じ、医師団は脳卒中と診断して休養を命じた。8月には一度復帰するものの11月には演説がうまくできなくなって再び休養を命じられる。

 さらに12月の2度目の発作の後に病状が急速に悪化し、政治局は彼に静養を命じた。スターリンは、他者がレーニンと面会するのを避けるために監督する役に就いた。こうしてレーニンの政権内における影響力は縮小していった。
 レーニンは、症状が軽いうちは口述筆記で政治局への指示などを伝えることができたが、政治局側はもはや文書を彼の元に持ち込むことはなく、彼の療養に関する要求はほとんどが無視された。
 クループスカヤがスターリンに面罵されたことを知って彼に詰問の手紙を書いた直後の1923年3月6日に3度目の発作が起きるとレーニンは失語症のためにもはや話すことも出来ず、ほとんど廃人状態となり、1924年1月20日に4度目の発作を起こして翌1月21日に死去した。

 葬儀は1月27日にスターリンが中心となって挙行され、葬儀は26日に行う、というスターリンが送った偽情報によりモスクワを離れていたトロツキーは、参列することができなかった。
 レーニンの遺体は、死後ほどなく保存処理され、モスクワのレーニン廟に現在も永久展示されている。

 レーニン死後のボリシェヴィキの党内闘争では、対立する諸派はいずれもレーニンの忠実な後継者としてふるまった。
 スターリン派はマルクス・レーニン主義を体系化し、トロツキー派はボリシェヴィキ・レーニン主義を標榜した。その過程でレーニンは神格化されていった。スターリン批判によりスターリンの権威が落ちた後も、レーニンの権威はほとんど揺らがなかった。
(参考資料)Wikipediaほか

ロシア最後の皇帝ニコライ二世

ニコライ2世(1868年5月18日~1918年7月17日)は、ロマノフ朝第14代にして最後のロシア皇帝(在位1894年11月1日 - 1917年3月15日)。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世やイギリス国王ジョージ5世は従兄にあたる。

 日露戦争・第一次世界大戦において指導的な役割を果たすが、革命勢力を厳しく弾圧したためロシア革命を招き、1918年7月17日未明にエカテリンブルクのイパチェフ館において一家ともども虐殺された。
 東ローマ帝国の皇帝教皇主義の影響を受けたロシアにおいて、皇帝は宗教的な指導者としての性格も強いため、正教会の聖人(新致命者)に列せられている。


中国分割

 1894年の日清戦争で清に勝利した日本は巨額の賠償金と重要な海軍拠点の旅順を含む遼東半島を獲得した。
 これに対してロシア政府は蔵相ヴィッテの主導で「日本の南満州支配は認められない」という声明を出し、開戦も辞さない態度で日本を脅迫した。
 さらに外相アレクセイ・ロバノフ=ロストフスキー(ロシア語版)の主導でフランスやドイツの支持も得て、日本に三国干渉をかけ、遼東半島を清に返還させた。これにより日露関係は急速に悪化した。


朝鮮への野心

ロシアは満洲・中国北部の支配権拡張と並行して朝鮮への影響力の拡大にも努めた。朝鮮はウラジオストクに近いため、ここを他の列強に抑えられると圧迫される可能性があった。また日本が対馬両岸を抑える事態になれば、旅順港とウラジオストク港を結ぶシーレーンが危機に晒される恐れもあった。だが朝鮮半島をロシアに取られれば、圧迫されるのは日本も同じであり、日本も朝鮮への支配権拡張に努めた。


日露戦争とロシア第一革命

 「黄色い猿」を侮蔑するニコライ2世は、ロシアがどんなに強硬路線を取ろうと日本にロシアと戦争する勇気などあるはずがなく、自分が望まない限り、戦争にはならないと考えていた。
 1903年10月にはアレクセーエフ提督に対して「私は日本との戦争を望まないし、許可もしない」と述べたかと思えば、12月には「ロシアの強硬な圧力を受けて日本が旅順から撤退した1895年を思い出す」「どっちにしても日本は野蛮な国だ。開戦か、利権交渉か、一体どちらがよいことやら」と述べる。
 さらに1904年1月の新年のレセプションの席では「何人たりともロシアの忍耐力と平和を愛する心にいつまでも期待をかけてはならない。ロシアは大国であり、行きすぎた挑発は許さない」と演説した。

 1904年2月9日深夜、日本が宣戦布告なしで旅順のロシア艦隊に攻撃を加えたことで日露戦争が開戦した。アレクセーエフ提督からこの報告を受けた時ニコライ2世は「宣戦布告なしだと!神よ、我らを助けたまえ」と述べたという。

 だがニコライの予想とは裏腹に戦況は思わしくなく、日本艦隊は早々に旅順のロシア艦隊をウラジオストクに追って制海権を獲得。5月にはロシア陸軍は鴨緑江で敗北し、奉天まで後退を余儀なくされた。
 ニコライ2世の最後の希望だったバルチック艦隊も、ようやく極東に到着したばかりの5月27~28日に行われた日本海海戦において、ほぼ一方的に殲滅されてしまった。


血の日曜日事件

 1905年1月9日、莫大な戦費や戦役に苦しんだ民衆が皇帝への嘆願書を携えてサンクトペテルブルクの冬宮殿前広場に近づくと、兵士は丸腰の10万の群衆に発砲し、2,000~3,000人の死者と1,000~2,000人の負傷者を出した(血の日曜日事件)。
 敗戦による威信の低下に加え、皇帝が民衆に対して友好的であるという印象が崩れ去り、国民統合の象徴としての存在感を失った。


大戦(第一次世界大戦)と革命

 1914年6月、サラエヴォ事件が起き、7月28日にオーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦を布告すると、ロシア軍部は戦争準備を主張し皇帝へ圧力を掛けた。
 開戦によりドイツ語風の名をもつ首都サンクトペテルブルクも、これをロシア語に訳したペトログラードと改められた。しかしタンネンベルクの戦いでは、敵の3倍近い兵力を有していながら1個軍(20万人相当)を喪失するという壊滅的な敗北を経験した。

 さらに1915年春には、兵装や輸送・通信システムなどにおいて先進的な近代機器を擁するドイツに対して相次ぐ大敗を喫し、戦況が悪化した同年夏には「大退却」を余儀なくされる。

 ロマノフ家に対する批判的機運が高まったことから、保守派は帝政を救おうとしてニコライ2世の譲位を画策した。1916年12月、ラスプーチンは皇帝の従弟にあたるドミトリー大公や姪の夫ユスポフ公らによって暗殺され怪死を遂げるが、それでも皇帝は孤立の度合いを深めるばかりであった。

 1917年1月には、改善しない戦況と物資不足に苦しんだ民衆が蜂起した。これには軍隊の一部も反乱に合流し、ロシア全土が大混乱に陥った。前近代的な社会体制からくる矛盾をついに克服できなかった帝政ロシアにとって、近代的な総力戦を継続することは既に限界に達していたのである。


ロシア帝国の崩壊

 こうした状況下、二月革命が起こり、さらに3月8日には首都ペトログラードでも暴動が起こると、ニコライ2世は首都の司令官に断乎たる手段をとるよう命じた。秩序回復のために大本営から首都へ軍が差し向けられたものの、内閣は辞職し、軍に支持されたドゥーマは皇帝に退位と譲位を要求した。

 1917年3月15日 ニコライ2世は、最終的にはほとんどすべての司令官の賛成によってプスコフで退位させられた。この時ニコライ2世は、本来後継者として予定されていた皇太子アレクセイではなく、弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に皇位を譲った。 しかし、ミハイル大公は即位を拒否したため、ここに300年続いたロマノフ朝は幕を閉じ、ロマノフ家の人々は一市民になった。

 ユリウス暦3月7日には臨時政府によって自由を剥奪され、ツァールスコエ・セローに監禁された。英国君主とも血縁関係が強い元ロシア皇帝一家を同盟国でもあるイギリスに亡命させる計画もあったが、ペトログラードのソヴィエトを中心として反対論があり、同年8月、妻や5人の子供とともにシベリア西部のトボリスクに流された。


最期

 ボリシェヴィキによる十月革命がおこってケレンスキー政権が倒されると、一家はウラル地方のエカテリンブルクへ移され、イパチェフ館に監禁(資産家イパチェフの家を接収して使用)された。

 チェコ軍団の決起によって白軍がエカテリンブルクに近づくと、ソヴィエト権力は、元皇帝が白軍に奪回されることを恐れ、ウラジーミル・レーニンは、1918年7月17日午前2時33分、ロマノフ一族全員の殺害を命じた。

 命令を受けた元軍医のユダヤ人、ヤコフ・ユロフスキー率いるロシア帝政下で抑圧され続けた少数民族のユダヤ人・ハンガリー人・ラトビア人で構成された「処刑隊」がニコライ2世元皇帝一家7人ほか、合わせて11人をイパチェフ館の地下で銃殺した。
これにより、元皇帝夫婦ニコライ2世とアレクサンドラの血筋は途絶えた。


(参考資料)Wikipediaほか
ロシア革命(1905年~1917年)


 ロシア革命(英: Russian Revolution)とは、1917年にロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す名称である。
特に史上初の社会主義国家樹立につながったことに重点を置く場合には、十月革命のことを意味している。また逆に、広義には1905年のロシア第一革命も含めた長期の諸革命運動を意味する。


経緯

 ロシアでは1861年の農奴解放以後も農民の生活向上は緩やかで、封建的な社会体制に対する不満が継続的に存在していた。また、19世紀末以降の産業革命により工業労働者が増加し、社会主義勢力の影響が浸透していた。これに対し、ロマノフ朝の絶対専制(ツァーリズム)を維持する政府は社会の変化に対し有効な対策を講じることができないでいた。1881年には皇帝アレクサンドル2世が暗殺されるなどテロも頻繁に発生していた。


第1次ロシア革命

血の日曜日事件



ロシア革命の発端になった「血の日曜日事件」

1905年1月9日 ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで行われた労働者に
よる皇宮への平和的な請願行進に対し、政府当局に動員された軍隊が発砲し、
多数の死傷者を出した事件


 日露戦争での苦戦が続く1905年1月には、首都サンクトペテルブルクで生活の困窮をツァーリ(皇帝)に訴える労働者の請願デモに対し軍隊が発砲し多数の死者を出した。(血の日曜日事件)

 この事件を機に労働者や兵士の間で革命運動が活発化し、全国各地の都市でソヴィエト(労働者・農民・兵士の評議会)が結成された。また、黒海艦隊では「血の日曜日事件」の影響を受け戦艦ポチョムキン・タヴリーチェスキー公のウクライナ人水兵らが反乱を起こしたが、他艦により鎮圧された。

 同艦に呼応した戦艦ゲオルギー・ポベドノーセツは、指揮官により座礁させられた。また、その約半年後同様にしてウクライナ人水兵らが反乱を起こした防護巡洋艦オチャーコフでも、戦闘ののち反乱勢力は鎮圧された。この時期、ロシア中央から離れたセヴァストーポリやオデッサなど黒海沿岸諸都市やキエフなどで革命運動が盛り上がりを見せた。なおこの年の9月にはロシアは日露戦争に敗北している。

 こうした革命運動の広がりに対し皇帝ニコライ2世は十月勅令でドゥーマ(国会)開設と憲法制定を発表し、ブルジョワジーを基盤とする立憲民主党(カデット)の支持を得て革命運動の一応の鎮静化に成功した。

 一方、労働者を中核とした社会主義革命の実現を目指したロシア社会民主労働党は方針の違いから、1912年にウラジーミル・レーニンが指導するボリシェヴィキとゲオルギー・プレハーノフらのメンシェヴィキに分裂していたが、ナロードニキ運動を継承して農民の支持を集める社会革命党(エスエル)と共に積極的な活動を展開し、第一次世界大戦においてドイツ軍による深刻な打撃(1915年~1916年)が伝えられるとその党勢を拡大していった。


第2次ロシア革命

二月革命「革命の勃発と二重権力の成立」



2月革命にてツアーリ(皇帝)の警察隊を攻撃する革命部隊
(出典)Wikipedia

 1917年2月23日、ペトログラードで国際婦人デーにあわせてヴィボルグ地区の女性労働者がストライキに入り、デモを行った。食糧不足への不満を背景とした「パンをよこせ」という要求が中心となっていた。他の労働者もこのデモに呼応し、数日のうちにデモとストは全市に広がった。要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大した。

 ニコライ2世は軍にデモやストの鎮圧を命じ、ドゥーマには停会命令を出した。しかし鎮圧に向かった兵士は次々に反乱を起こして労働者側についた。
1917年2月27日、労働者や兵士はメンシェヴィキ(社会主義右派)の呼びかけに応じてペトログラード・ソヴィエトを結成した。一方、同じ日にドゥーマの議員は臨時委員会をつくって新政府の設立へと動いた。ニコライ2世は退位へと追い込まれ、ロマノフ朝は崩壊した。

 1917年3月1日、ペトログラード・ソヴィエトはペトログラード守備軍に対して「命令第一号」を出した。「国会軍事委員会の命令は、それが労兵ソヴィエトの命令と決定に反しないかぎりで遂行すべきである」などとし、国家権力を有産階級主体の臨時政府と分かちあう姿勢を示した。これによって生まれた状況は二重権力と呼ばれた。
 ドゥーマ臨時委員会は1917年3月2日、カデットのリヴォフを首相とする臨時政府を設立した。ペトログラード・ソヴィエトを指導するメンシェヴィキ(社会主義右派)は、ロシアが当面する革命は、ブルジョワ革命であり、権力はブルジョワジーが握るべきであるという認識から、臨時政府をブルジョワ政府と見なして支持する方針を示した。


四月危機



 1917年、臨時政府は3月6日、同盟国との協定を維持して戦争を継続する姿勢を示した声明を発表した。一方、ペトログラード・ソヴィエトが3月14日に「全世界の諸国民へ」と題して発表した声明は、「われわれは、自己の支配階級の侵略政策にすべての手段をもって対抗するであろう。そしてわれわれは、ヨーロッパの諸国民に、平和のための断乎たる協同行動を呼びかける」「ロシア人民がツァーリの専制権力を打倒したように、諸君の反専制的体制のクビキを投げすてよ」とし、臨時政府の姿勢との食い違いをみせた。


レーニンの「四月テーゼ(政治運動の活動方針となる綱領)」



「演説するウラジーミル・レーニン」
本来右半分にはトロツキーの姿があったが1930年代スターリン時代の
検閲により写真はカットされている。(出典)Wikipedia

 ボリシェヴィキ(ウラジーミル・レーニンが率いた左派の一派)は、弾圧によって弱体化していたため、二月革命の過程で指導力を発揮することはできず、ソヴィエトにおいても少数派にとどまった。臨時政府やソヴィエト(労働者・農民・兵士の評議会)に対する姿勢に関しても革命当初は方針を明確に定めることができなかった。
1917年4月3日、亡命地から帰国したレーニンは、「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」と題したテーゼ(四月テーゼ)を発表して政策転換を訴えた。その内容は、臨時政府をブルジョワ政府と見なし、いっさい支持しないこと「祖国防衛」を拒否すること、全権力のソヴィエトへの移行を宣伝することなどであった。


攻勢の失敗と七月事件



 第一次連立政府で陸海相となったケレンスキーは、同盟諸国からの要求に応え、前線において大攻勢を仕掛けた。将軍たちは攻勢に伴う愛国主義的熱狂によって兵士たちの不満を抑えようとした。しかし1917年6月18日に始まった攻勢は数日で頓挫し、ドイツからの反攻に遭った。攻勢が行き詰まると兵士たちのあいだで政府に対する不信感はさらに強まった。

 1917年7月3日、ペトログラードの第一機関銃連隊は、ソヴィエトの中央執行委員会に全権力を掌握するよう求めるための武装デモを行うことを決定した。他の部隊や工場労働者も呼応し、その日のうちに武装デモが始まった(七月事件)。
 これらのデモを扇動したのはアナーキストであり、レーニンが率いるボリシェヴィキは当初の段階ではデモを抑える姿勢をとっていた。
デモが失敗に終わると、一切がボリシェヴィキの扇動によるものと見なされ、激しい弾圧を受けることになった。トロツキーやカーメネフは逮捕され、レーニンやジノヴィエフは地下に潜った。デモに参加した部隊は武装解除され、兵士たちは前線へ送られた。
 レーニンは、この7月事件により二月革命以来の二重権力状況は終わり、権力は決定的に反革命派へと移行したと評価し、四月テーゼの「全権力をソヴィエトへ」というスローガンを放棄することを呼びかけた。
 このスローガンは権力の平和的移行を意味するものだったため、その放棄とは実質的には「武装蜂起による権力奪取」を意味した。


コルニーロフの反乱



1917年のラーヴル・コルニーロフ
(出典)Wikipedia

 1917年7月18日に軍の最高総司令官に任命されたコルニーロフは、二月革命以後に獲得された兵士の権利を制限し「有害分子」を追放することなどを政府に要求して保守派の支持を集めた。
 8月24日、コルニーロフはクルイモフ将軍に対し、ペトログラードへ進撃して革命派の労働者や兵士を武装解除し、ソヴィエトを解散させることを命じた。翌日には政府に対して全権力の移譲を要求した。

 8月28日、ソヴィエトはこれに応じて、対反革命人民闘争委員会をつくった。弾圧を受けてきたボリシェヴィキ(レーニンが率いた左派の一派)も委員会に参加してコルニーロフと闘う姿勢を示した。
 ペトログラードに接近した反乱軍の兵士たちは、ソヴィエトを支持する労働者や兵士の説得を受け、将校の命令に従わなくなった。反乱軍は一発の銃弾も撃つことなく解体し、コルニーロフの反乱は失敗に終わった。クルイモフは自殺し、コルニーロフは逮捕された。


十月革命「1917年 ソヴィエト権力の成立」



 ソヴィエトは1917年9月14日から22日にかけて「民主主義会議」を開いて権力の問題を討議し、有産階級代表との連立政府をつくること、コルニーロフ反乱に加担した分子を排除すること、カデットを排除すること、という三点を決議した。しかし有産階級代表との連立政府とは実質的にはカデットとの連立政府だったため、この三つの決議は互いに矛盾していた。ソヴィエト内部ではコルニーロフの反乱以後、ボリシェヴィキへの支持が急速に高まった。
 8月末から9月にかけ、ペトログラードとモスクワのソヴィエトでボリシェヴィキ提出の決議が採択され、ボリシェヴィキ中心の執行部が選出された。これを受け、レーニンは武装蜂起による権力奪取をボリシェヴィキの中央委員会に提起した。
 中央委員会は10月10日に武装蜂起の方針を決定し、10月16日の拡大中央委員会会議でも再確認した。
 一方、トロツキーは「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」と演説し、あからさまに武装蜂起の方針を認めた。メンシェヴィキ(社会主義右派)は軍事革命委員会への参加を拒否し、委員会の構成メンバーはボリシェヴィキ48名、社会革命党左派14名、アナーキスト4名となった。

 蜂起と並行して第二回全国労働者・兵士代表ソヴィエト大会が開かれた。
冬宮占領を待ち、大会は権力のソヴィエトへの移行を宣言した。さらに27日、大会は全交戦国に無併合・無賠償の講和を提案する「平和に関する布告」、地主からの土地の没収を宣言する「土地に関する布告」を採択し、新しい政府としてレーニンを議長とする「人民委員会議」を設立した。


第二回ソヴェト大会で演説するV.I.レーニン
(出典)ロシアの通貨 / ロシア革命の貨幣史

 トロツキーが指揮するボリシェヴィキ派(赤衛隊)が武装蜂起を決行、10月25日にペトログラードを制圧してケレンスキーの臨時政府を打倒した。
 冬宮から逃亡したケレンスキー(臨時政府大臣会議議長(首相))は、プスコフで騎兵第三軍団長クラスノフの協力をとりつけ、その軍によって10月27日にペトログラードへの反攻を開始した。
 ペトログラード市内でも社会革命党やメンシェヴィキを中心に「祖国と革命救済委員会」がつくられ、10月29日に士官学校生らが反乱を開始した。しかし反乱はその日のうちに鎮圧され、ケレンスキー・クラスノフ軍も翌日の戦闘で敗れた。
 11月2日に社会保安委員会は屈服して和平協定に応じた。軍事革命委員会は11月3日にソヴィエト権力の樹立を宣言した。
 ボリシェヴィキとともに武装蜂起に参加した社会革命党左派は、11月に党中央により除名処分を受け、左翼社会革命党として独立した。左翼社会革命党はボリシェヴィキからの入閣要請に応じ、12月9日に両者の連立政府が成立した。


内戦と干渉戦




ロシア軍は、ピョートル・ヴラーンゲリによって建設されたロシアの軍隊である。
赤軍に反対する白軍(
白衛軍)運動を展開した。
ロシア軍総軍司令官ヴラーンゲリ将軍とコサック部隊の司令官たち。敬礼をするヴラーンゲリ総軍司令官、その右側に第4クバン軍団司令官シャチーロフ将軍、左側にドン・コサック軍のアタマン・ボガエーフスキイ将軍


ミハイル・ショーロホフ Михаил Александрович Шолохов, 1905-1984 の名作 『静かなドン』 にも描かれているように、内戦の初期には、革命側と反革命側との戦闘で騎兵が重要な役割を担っており、多くの場合、機動力と衝力のある騎兵の前哨戦で殆ど形勢が決したという。 騎兵戦では コサック が中心となり、革命側・反革命側ともにコサック軍を前面にして戦った。
(絵画は、N.S.サモーキシ Николай Семёнович Самокиш, 1860-1944 の 「軍旗のための戦い。突撃 《Бой за знамя. Атака.》 」、1922年)
ロシア革命の混乱に乗じて、侵攻してきたポーランド軍

 1918年5月、捕虜としてシベリアにとどめおかれていたチェコスロバキア軍団が反乱を起こし、これに乗じてアメリカや日本がシベリアに出兵した(シベリア出兵)。イギリス軍は白海沿岸の都市を占領した。
 サマーラでは社会革命党の憲法制定議会議員が独自の政府、憲法制定議会議員委員会をつくり、さらに旧軍の将校が各地で軍事行動を開始した。
ソヴィエト政府はブレスト=リトフスク条約締結後に軍事人民委員となっていたトロツキーの下で赤軍を創設して戦った。
 この内戦と干渉戦はボリシェヴィキの一党独裁を強め、ボリシェヴィキ以外のすべての政党は非合法化された。革命直後に創設されていた秘密警察は、裁判所の決定なしに逮捕や処刑を行う権限を与えられた。

 1918年8月30日には「左翼社会革命党」の党員が、レーニンに対する暗殺未遂事件を起こし、これをきっかけに政府は「赤色テロル」を宣言して激しい報復を行った。
 一方、退位後監禁されていたニコライ2世とその家族は、1918年7月17日、反革命側に奪還されるおそれが生じたために銃殺された。
内戦は1920年までに収束し、ソヴィエト政府側の勝利に終わった。最後までシベリアに残っていた日本軍も1922年に撤退した。


(参考資料)Wikipediaなど

  • オーディオビジュアル用語辞典
  • 北大秀岳会山行8ミリ映画集
  • 日本の頭脳 世界も驚く名言集
  • 激動の北大史1969 [北大紛争の記録]
  • おもしろ動画
  • おもしろ世相
  • ビデオソフトの著作権問題
  • レ-ザ-ディスクの経年変化問題


  • 怪談奇談「ミステリーの世界にようこそ」
  • 写真集「昭和の札幌」昭和20年~30年代
  • さっぽろ昔ばなし「60年前の記憶」
  • 実話「怖い虫のお話」子供の頃の体験談
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