もくじ
<第一部> 『国民皆・貧困時代』 <第二部> 『祖父の想い出』
<第三部> 『母と父』 <第四部> 『犬ぞりとスキー』
<第五部> 『小学校入学』 <第六部> 『少年少女合唱団』
<第七部> 『‥…エピローグ…‥』  写真集 昭和の札幌T
<第一部> 『国民皆・貧困時代』
 《昭和二十年代初期》 私が生まれた頃は、皆、貧乏であった。電化製品といえば照明器具や電気蓄音機とアイロンくらいで、テレビはもちろんの事、冷蔵庫や洗濯機もまだ一般家庭には普及していない時代であった。母親の実家があった黒松内村ではランプ生活であった。

なぜ、我が家に電気蓄音機(デンチク)があったかというと、父親は洋画が好きで、よく映画を見に連れて行かれたものである。デンチクは、その洋画の主題歌を聴くために必要だったようだ。
私には童謡のレコードを買って聴かせてくれた。当然、SPレコードの時代である。

市民の足は、国鉄と市電とバスで、クルマを持っている者は、どこかの上流階級の人々くらいで、庶民は、冠婚葬祭の時しかハイヤーを使わなかった。また、道路でタクシーを見かけることは殆どなく、馬車や馬ソリのほうを、よく見かけたものである。

馬ソリには、通学の際、時々乗せてもらった記憶がある。雪が融け、春になれば、馬糞が風に乗って舞い上がる。つまり「馬糞風」が吹き抜ける環境であったが、市民はそれが普通のことと感じていた。このように、何もない時代といっても別に不満があったわけではない。

むしろ、今の子供達よりも、満たされていたように思える。学校から帰れば、同世代の子供同士でパッチ(メンコ)やビー玉をして遊んだり、缶蹴りや、かくれんぼをしたものであった。
どこの家庭も子供が多く、いつも10人くらいの子供が、特に待ち合わせ時間や場所などを決めなくても、お寺の境内や広場などに集まっていた。

子供が10人も集まれば、自然に一つの軍団が組織され、当然、子供のボスが出現する。いわゆるガキ大将というやつである。私は年少者であったため、ガキ大将にはならなかった。いや、なれなかった。だからといって、いじめられたという記憶は全くない。

近所の子供らは、5尺8寸(約180cm)の身長と、当時としては背が高く、声が大きい私の父親が怖かったのかも知れない。
5歳くらいの頃だっただろうか。チャンバラをして遊んでいたとき、相手の刀が手に当たった。そのとき私が大声で泣いた。
すると、父親が家から飛び出してきて、ガキ軍団を蹴散らした。父親は、どこの子供が泣いているのかとよく見たら、我が子(私)だったのに驚き「一度殴られたら二度殴り返してこい」とハッパをかけられた。

子供達の間では、対立する組織も必然的にでき、電車通りを挟んでよく喧嘩をした。
電車通りの東側は桑園小学校の縄張りで、西側は日新小学校の縄張りであった。大勢で「ソウエン底抜け小学校」と罵声を浴びせたら「ニッシン憎まれ小学校」という罵声が帰ってきた。

当時の「桑園小学校」は、これ以上ボロっちくなりようがないくらい傷んでいた。なにせ、私の父親の小学生時代からの建造物であったから、ボロっちいのは当然である。
父親は非常に厳しい人で、毎日のように殴られたものだった。なぜ父親に殴られたのか分からないが、殴られるということは自分が悪いからだと思った。父親との間には、議論の余地は全くなく、善悪は、身体で覚え込まされたのである。

父親は、よく軍隊の話をしてくれた。父親の部隊が駐留していたのは、中国の北支というところだった。パーロ(八露軍)は非常に怖かったそうである。しかし、現地人のクーニャン(若い女性ら)とは仲良かったそうだ。

戦死した日本軍兵士の中には、突撃のドサクサに紛れて、味方に狙撃された上官が多かったそうである。味方に後ろから撃たれても、靖国神社には名誉の戦死(軍神)として祭られたという。

父親が口癖のように言っていたのは「軍隊は人間の行くところではない、もし息子たちが徴兵されるのなら代わりに俺が軍隊に行く。お前達には絶対、銃を持たすようなことはさせない」という言葉であった。

中国の最前線から引き揚げ、本土に着いたとき、米将兵は、戦友の遺骨を抱いている私の父親に対し最敬礼をしたという。

父親は、国鉄に鉄道公安官として復職した。
当時、国鉄は敗戦という悲惨な状況の中で、たくましく汽笛をあげて、国民の夢と希望を乗せ、そして国民の足として全国を走り抜けた。

「さっぽろ昔話」第一部 終わり

写真集  写真集 昭和の札幌T
 
小樽「オタモイ」にて
<第三部> 『母と父』
《昭和二十年代初期》 当時は、クルマもない、冷蔵庫や洗濯機もない、満足な衣服もない、あるのは、寝るところと、食べるところくらいである。このように、市民が皆、貧乏であれば貧富の差が無いのは当然である。

しかし寝るところもなく、食うこともできない人々もいた。そのような人々は、私の家のような、貧乏人の家からも、食べる物を貰いながら暮らしていた。当時、そういう人々のことを「乞食」 とか、「物もらい」と呼んでいた。

私が3歳くらいのころ乞食の母子が、うちに「食べる物を頂けませんか」と訪問して来た。
私の母親は、その2人に焼きおにぎりを握ってあげていた。良く見ると乞食の母子のほうが、私や私の母親よりも良い衣服を着ていた。子供は、私と同じ年頃の女の子であった。
その女の子は、いま元気にやっているのであろうか。ひょっとしたらバブル景気の頃に大儲けをして、資産家になっているかも知れない。

そのころ、札幌円山病院で幽霊騒動があった。
病院のトイレで幽霊を見たという患者が続出したのである。
病院側は、僧侶の読経で霊を鎮めてもらったようだ。その様子が、ラジオでも放送された。
いま考えれば馬鹿らしいことと思うが、当時はそういう時代であった。

そういえば、母親に「戦争はどうして起こるの」と聞いたことがある。母親から「人が増えるから戦争をするのよ」という答えが返ってきた。もう一つ「赤ちゃんはどこから産まれるの」と聞いたら「おヘソからよ」という返事だった。
3歳の私に対する解答としては仕方がなかったと思うが、市立高女(札幌市立高等女学校)を出たと威張るのなら、もっと適切な解答があったように思える。それは私が3歳、母親が21歳の時であった。母親の女学生当時は、男女共学ではなかったそうだ。

札幌市の旧制・男子校は、一中(現在の札幌南高校)、二中(現在の札幌西高校)、北中(現在の北海高校)と他に札商(現在の札幌商業)などの実業学校があった。女子校は、庁立高女(現在の札幌北高校)、市立高女(現在の札幌東高校)、
そして他に静修(現在の静修女子高校)などの裁縫学校があった。
北中(現在の北海高校)は、父親の出身校で、昔も野球では有名であった。父親は野球ではなく、サッカーの選手をやっていたようで全国大会にも出場した経験があると言って自慢していた。

父親は、高校野球が始まれば、必ず母校である北海高校の応援をしていた。いつ頃だったか、私が「北海高校など負けてしまえ!」といったら、おもいっきり殴られた記憶がある。いやぁ、目から火花が出て痛かったですね。

札幌駅前や三越前そして狸小路などを歩けば、戦闘帽に白装束の傷痍軍人のグループがアコーディオンを弾きながら寄付を集めていた。
聞くところによると、戦争で負傷した軍人よりも事故で負傷した者が、傷痍軍人の服装をして寄付を集めている場合もあったそうだ。

ところで、豊平川にかかる大きな橋として、豊平橋、一条橋、東橋があったが、東橋の下の河川敷に「サムライ部落」という名の集落があった。
そこには、戦争や災害で、住む家や家族を無くした人々が、バラックを建てて住み着いていた。
職業としては雑品屋が多かったようだ。

東橋の上から河川敷を見ると、ゴミの中に人々が住んでいるように見え、その中から元気な子供の声も聞こえた。母親から聞いた話だが、あのような環境の中で暮らしていても、当時、北大に入った子供や2千万円(昭和二十年代の貨幣価値)も貯め込んだ人もいたそうである。

昭和二十年代の昔は、なんといっても貧乏人の中の貧乏人といえば、公務員や鉄道員であった。
なにせ「公務員には嫁がこない」という時代であったから、どれだけ貧乏であったか察しがつくと思う。

父親は、中国の戦地から復員し、鉄道公安官として国鉄に勤めていたため、私は近所の子供らから「日本一の貧乏人」と呼ばれていたくらいである。誰も嫁にこないのを知りながら、父親になぜ国鉄に入ったのか知りたかったが、もうそのわけを聞くことはできない。

「親孝行したいときには親は無し」とよく言ったものであるが、親がいるときには「親孝行したくないとき親が居る」というのが現実と思うのである。私には一人娘がいるが、娘にもそう思われているのかも知れない。

十数年前は「安室」ルックが流行っていたそうだが、当時、私の娘も例外ではなく、長い髪を茶色に染めて厚底のブーツを履き、この寒いのに超ミニスカートで、出歩いていたのを思い出す。

私は「お前、格好だけは真似ができても八頭身だけは真似ができないぞ」と怒鳴ったら険悪になってしまった。そもそも、北海道のような豪雪寒冷地に住む人間は、どうしても、脚が短くなるのである。
その理由は、豪雪地帯のうえに氷の世界で育つため、膝から下は、安定性を保つため伸びないのである。そして膝から上は太くなる。北海道から、ミスユニバースやミスワールド候補が出ない原因はそこにある。

もし、脚が長くなるように成長したい、あるいはさせたいときは、雪や氷のない地方で暮らすことをおすすめする。ついでに述べると、北海道のような寒冷地に住む人間は、夏場、本州のような暖かいところに行くと、玉のような汗を流す。

そのわけは、寒冷地であるため、生まれたころから保温のため 多くの汗腺の穴が閉じてしまうそうである。一方、暖かいところに住む本州の人間の場合は、まんべんなく汗がでるため、玉のような 汗をかく人は少ない。

したがって、東京のような大都会に住んでいたとしても「脚の長さ」や 「汗のかき具合」から出身地の察しがつくのだ。
北海道の春は遅く夏は短い。豪雪だけは、今も昔も変わらない。
おそらく未来も変わらないだろう。
「さっぽろ昔話」第三部 終わり
 
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小学五年生進級記念写真
<第五部> 『小学校入学』
 《昭和二十年代後期》 私の小学校入学式の前日、父親に自分の名前を漢字で書けるよう特訓された。「栄」という漢字が、なかなか書けないため、何回も叱られた記憶がある。
父親は、私にとって生きた字引であり、そのため辞書など必要としなかった。

父は、私にいつも分からない文字や単語の意味を教えてくれた。最後に教えてもらった言葉は「森羅万象」の意味であった。
父親は、酸素吸入をしながら「世の中のありとあらゆる物」と答えて、その数日後に死んだ。
享年65歳であった。
父は戦時中、皇軍の兵士として中国軍と戦い、戦後は貧乏と戦い、国鉄退職後は腎臓病と戦い、そして一人の赤子 (せきし)が戦死した。戒名は禅寺から「善覚院徹山勝元居士」を授かった。

私が通った小学校は、畑に囲まれ、通学路の途中には、大きな肥溜めが数ヶ所あった。その肥溜めに石ころを投げて遊んだものであった。
大きい石ほど、そのしぶきが豪快であった。石をドボッツと投げ込むとワンステップをおいてからベチャとしぶきが上がるのである。
私は肥溜めのしぶきを上げながら、意気揚々として通学したものであった。

クラス編成は、男子と女子半々であった。小学校入学前の、私の周りの子供らは殆ど男子であったから、女子と遊ぶことは、殆ど無かった。そのため、私は、いいかっこしようと有頂天になった。
給食後の休み時間、ある女の子を押しつけて怪我をさせてしまった。担任の男性教師は、その子の家に謝りにいった。毎度そのような事が続いたせいかどうか、クラス担任として就任してから僅か半年で病気になり、とうとう入院してしまった。

その後、後任として若い女性教師がやってきた。この女性教師は非常に厳しい人であった。
ある日の昼休み、私は友達と「3つ並べ」というゲームをしていた。
この「3つ並べ」は、体育館の階段や地面に石筆でゲーム板を描き、相手に対面させて、石を3つ並べ、ジャンケンで勝った方から先に1コマずつ石を移動させ、先に相手方の石が置いてあったところに、自分の石を3つ並べたほうが勝ちというゲームである。

ゲームをするために必要な道具は、石筆、もしくはチョークのみであったため、お金をかけずにゲームをすることができた。
さて、「3つ並べ」のゲーム終了後、私の周りで、おっ駆けっこ「鬼ごっこ」をしているグループを発見した。
私はその、おっ駆けっこに入れてもらおうと思ったが、相手にしてもらえなかった。私は、面白くなかったので、思いっきり蹴っ飛ばした相手が女の子だったのが不運であった。
午後の授業が始まるとき、クラス担任の女性教師にビンタをはられたのである。

私には、少年時代から女難の相が出ていたのかも知れないが、自分が悪いのだから仕方がない。
学校帰り、非常に面白くなかったので、畑の肥溜めに特大の石を投げ込んだら、ベチャッと爽快にしぶきが上がったのを今でも忘れない。

その後、多くの友達もできて、誘い合って通学した。主な友人は、幼年時代に遊んだ近所のガキ軍団の連中であったが、そのガキ軍団に、かわいい女子友達も加わった。女子友達の中には、幽霊の話が好きな女の子もいた。
幽霊の話が好きだといっても、女の子自身が話す怪談、奇談のミステリーである。
私は、女の子が話してくれる怪談、奇談を毎日楽しみにしていたが、あまりの怖さで、夜中、トイレにも行けなくなることがあった。お盆の時、墓参りに行くと何となく不気味であった。

札幌円山公園の南側、裏参道の横に、坂下公園があり、その奥に円山墓地がある。円山墓地には、父方の祖父の墓があった。
私は毎年、両親に連れられてお参りにいった。
ゆかたを着て下駄を履き、ちょうちんを下げていくのが楽しみであった。
時々、ローソクの火がうつって、ちょうちんを燃やしてしまったこともあった。
円山墓地には、乞食の家族がたむろしており、私たちの墓参がいつ終わるかを、乞食の子供が、陰から探っているのが分かったが、私の両親は気にはしていなかった。おそらく、私たちが帰った後、供物を食べたのであろう。

飽食の時代、「ギャル」とか「コギャル」などと騒いでいた若者達には、札幌市中央区の小学校の通学路のそばに肥溜めがあったとか、円山墓地に乞食がたむろして供物を食べていたと話しても信用しないだろう。
昔から「かわいい子には旅をさせよ」という言葉があったが、私の娘は「かわいくなくてもよいから旅させないで」と言う。嘆かわしいことと思うが、平和で豊かな証拠なのかも知れない。

「さっぽろ昔話」第五部 終わり

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「賀陽宮(かやのみや)恒憲王が札幌に来られたときの、札幌グランドホテルでの合唱」
昭和13年5月16日

札幌駅一番ホーム
写真集 写真集 昭和の札幌T
 <第七部> 『‥…エピローグ…‥』
 《昭和30年代前期》 私の名前は、将来、代議士にでも立候補したときに、有権者に分かり易いようにと、祖父が命名したという。いかにも昔流の考え方である。

父親は、復員後、九州の佐世保で占領軍の通訳を兼ねて旧軍部の残務整理をおこなった経験もあり、英語はペラペラであった。そうしたこともあり、私には、外交官か野球選手にでもなって欲しいという希望があったらしい。
しかし、野球選手に英会話が必要なのであろうか。いや、父親は将来、スポーツ国際化の時代が来ることを予見していたのかも知れない。

一方、私を少年少女合唱団に入団させることに失敗した母親は、今度は、絵を習わせることにしたのである。音楽にしても、絵画にしても、母親が得意とするところだったが、私を世に出すには、どうしても有名な師匠の指導と権威が必要であったようだ。

私は近所や学校では、やんちゃ坊主だが、家では良い子であった。たとえば、お客さんがみえたときは両手をついて挨拶することを躾けられ、それを忠実に実行した。このように、祖父や両親の前では礼儀正しい良い子であり、近所でも礼儀の正しさでは有名であった。
さぞかし両親は、鼻高々であったことだろう。しかし、私は、祖父や両親の期待をことごとく裏切り、代議士でもない野球選手でもない、別の方向に向かって全力で走り続けた。

「故郷は」と聞かれると、私は、「札幌市中央区北4条西20丁目」と答える。
私が生まれ育ったところには、たくさんの思い出があり、いま、クルマで近くを通ると、どこからか子供達の声が聞こえてくるような気がする。
当時、私が住んでいたところには、大きなマンションやビルが建ち並び、お寺が建っていた場所は、北海道日産の営業所になっている。
私が育った家の向かい、電車通りの東側にあった商店街には、僅かではあるが、昔の面影がある。
既に「学芸大学行き」の市電は廃止され、片側2車線の舗装道路になり、タクシーやマイカーなどで渋滞している。
札幌西高校があったところは札幌龍谷学園になっており、幼年時代に遊んだポプラの木や大きな鉄棒は見あたらない。

長い年月で街は変貌しても、そのとき見た空は変わらない。
手稲の山々が赤く染まるとき、いつも歌った「手稲の頂き白い雲 大きく育てと呼ぶところ」と日新小学校の校歌が響きわたる。
しかし、日新小学校の卒業生名簿に、転校していった私の名前はない。

「さっぽろ昔話」少年期 完
2002年5月6日
2012年8月10日
2015年10月9日

写真集  写真集 昭和の札幌T
チャンバラ遊び
<第二部> 『祖父の想い出』
 《昭和二十年代初期》 先日、叔父の四十九日忌の法要があった。私くらいの年になれば、結婚式よりも、葬式や法事のほうが多くなるものである。人の魂は何処から来て何処へ行くのであろうか。

私が6歳の時、父方の祖父が死んだ。一方、母方の祖父は2月の厳冬期に、黒松内村(現在は黒松内町)の土木工事のとき脳溢血で倒れた。
馬ソリで病院に運ばれたが、既に息絶えていたそうだ。座棺の中に納められた経帷子の祖父の姿が、私の目に焼き付いている。

祖父の葬式の行列は思い出せないが、赤煉瓦作りの火葬場は記憶にある。今思えば、ゴミ焼却炉のような形をしていた。これは当時の黒松内村にあった火葬場の話である。

札幌市の火葬場は平岸にあった。手稲町や豊平町にもあったそうだが、当時は、まだ手稲町も豊平町も札幌市とは合併しておらず、それぞれ独立した町であった。平岸霊園には12の火炉があったが、どういうわけか火炉の最終番号は13であった。つまり、欠番の火炉が1つあったのである。

さて、欠番は何番目だと思いますか。
(A)4番、(B)9番、(C)13番の中から選びなさい。回答
現在、平岸火葬場のあとには市民プールが造られた。ここで時々水死者が出るのは「死者の霊に、足を引っ張られる」と言われているが、定かではない。

さて、昭和41年に札幌市の火葬場は、平岸から里塚に移ったが、現在は飽和状態であるそうだ。特に、友引の翌日は混んでいるため、葬式バスや霊柩車で渋滞し、30分以上も火葬場の前で待たされることもある。
どうやら、あの世もクルマ社会のようであり、この世の大渋滞を乗り越えなければ、昇天できないらしい。その後、手稲火葬場が完成したが、数年後には飽和し、1日では全ての遺体を処理できなくなるという。火葬場建設地周辺では反対運動が起こるに違いない。

葬儀場でさえ建設反対運動が起こるご時世であり、それが火葬場ともなると、なおさらのことである。平岸に火葬場があったころには、その日の気候によっては、周辺に「死者の灰」が降ってきたそうである。里塚や手稲火葬場周辺には、死者の灰は降らないのだろうか。

葬儀場といえば、いまは音と光で演出する葬儀が増えてきている。祭壇の背景や会場に、星空を映し出したりするのである。このような演出は結婚式とそれほど変わらず、違うのは参列者のネクタイの色くらいだろう。
そのうち、葬式にキャンドルサービスも登場するかもしれない。つまり、こうだ。
司会者の開会の辞の後、厳かな葬送行進曲にのって葬儀委員長を先頭に、棺と喪主が入場。
読経をバックミュージックとして、故人の略歴奉上、弔辞の拝受、弔電の拝読と続き、参席者ご焼香、葬儀委員長挨拶、喪主挨拶、閉会の辞で締めくくる。こんな時代がやってくるのだろうか。

父方の祖父は、母方の祖父の死後2ヶ月後、私が小学校入学時の身体検査のときに、脳溢血で倒れた。自宅には親戚や町内の人達が集まっていた。そして10日後に死んだ。祖父は、苗穂機関区で機関士の指導に携わっていたそうだ。

私が祖父の思い出として残っているのは、祖父が愛用していたチリ紙である。チリ紙といっても、今のようなティッシュではなく、新聞紙を4つに切って、5枚くらい重ね合わせて見開きにしたものであった。祖父はいつも洋服のポケットに入れて持ち歩いていた。

それでは、どうやって鼻をかむかというと、最初の頁を開き見開きにして、そのまま鼻をかみ閉じる。次回、鼻をかむときは、次ページを開いて鼻をかむ。最終頁にきたら最初に鼻をかんだ頁に戻って、乾いていればそこで鼻をかむというように極めて省資源の方式である。

経済的ではあるが欠点が2つある。それは少しバッチィことと、鼻の周りが、新聞紙のインクで黒く汚れることである。当時、インクの質が粗悪であったため、新聞紙を指でこすっただけでも汚れたのである。
湿った鼻をかむと、当然のことながら鼻が汚れるのであるが、そこは年の功といおうか、目立たなくする方法があった。それは、口髭や顎髭を生やすことであった。そうすることにより新聞紙のインクが鼻の周りについたとしても、さほど目立たなかったようだ。

昔の人が、口髭や顎髭を生やしていた理由が分かる。また、当時はトイレットペーパーというものがないため、便所紙は古新聞を使っていた。現在の水洗化の時代では、とうてい考えられない。

何もない時代の、生活の知恵というものであろうか。何もない時代のほうが、市民に様々なオリジナリティが身に付くのかもしれない。

「さっぽろ昔話」第二部 終わり
 
自宅玄関前

写真集  写真集 昭和の札幌T
 パッチ遊び
 <第四部> 『犬ぞりとスキー』
 《昭和二十年代中期》 初雪が降ると、よくスキーやソリで遊んだものである。僅か数センチの初雪では、スキーの跡が融けて地面が出てくるが、そんなことは構わず、ただ、ひたすらスキーを楽しんだ。その頃、チビという名の犬を飼っていた。

チビは子供の私から見れば、大きな犬であった。いつのことだっただろうか、犬ゾリで遊ぼうと思い、ソリにチビを繋いで、100メートルくらい引っ張っていこうと考えた。
チビは、どこかに連れて行かれると思ったのか、前足で踏ん張りながら動こうとしなかった。

そこを無理矢理引っ張って、ようやく本通りにたどり着いた。そしてソリに乗ろうと思ったとき、チビは私を置き去りにして、ソリを引きずりながら、猛烈な勢いで走り出した。

私は、いったん後ろに、ひっくり返ったが、気を取り直して、追いかけたが間に合わず、チビのほうが、先に家についてしまっていた。
まるでドリフターズのコントの様で、停留所(西20丁目)で市電が来るのを待っていた人達が、その光景を見て笑っていた。

このチビという犬は、私がいつも散髪に通っていた床屋さんから貰ってきた犬であった。縁の下で育ったせいか、自宅に連れてきても、縁の下に潜り込み、餌を食べるときしか出てこなかった。
私と犬とのつき合いは、チビから始まり、ジョン、タロ、チャロ、クロ、そして二代目ジョン、クニマツ、チャッピーと8匹目になる。

貧乏でオモチャが買えない時代には、自分で遊ぶ物を考え出したものである。その一つとして「豆スキー」というものがあった。
どのようなもので、どうやって遊ぶかというと、幅2センチ、長さ5センチくらいの木を見つけてきて、雪の上を滑るように削る。スキーというよりも、今流行のスノーボードのミニチュアのようなものである。そして手頃で小さい雪の坂を造り、それに溝を掘る。
この場合、旗門を設けたり、蛇行やジャンプなどの変化を付ける。コースができあがったら、坂の上から、豆スキーを滑らせるのである。
コースをはみ出さずに、最短時間でゴールに着いた方が勝ちである。

雪がたくさん積もると「跡つき」という遊びも流行った。それは、先頭の者が歩いたところを、同じように歩くのである。スキーを履いて遊ぶ場合もあるが、屋根から飛び降りたりする事もあるので、長靴で遊ぶ場合が多かった。
先頭者は小川を飛び越えたり、木に登ったりする。その後に行く者は、同じ歩き方や飛び方ができなければ後尾につくのである。当然、先頭者が転んだら、後尾につかなければならない。
この遊びには、ハンディがないため、身体の大きな年長者が何かと有利だった。

当時のスキー場としては、荒井山や南斜面(旭山公園と円山の中間「当時」)があったが、リフトなどの設備はなかった。現在、小中学校のスキー遠足は、バスを使うのであるが、私が子供の頃は1時間以上もかけて、歩いて行ったものである。まさに雪中行軍だった。
またワックスは経費節約のため、仏壇用のローソクを代用した。スキー遠足の昼食では、母親が握ってくれた「おにぎり」が凍って、カチンカチンになっていたのを思い出す。
スキー用具を買い揃えることが出来なくても、親戚や知人のお下がりを利用したものであった。

また、歩いて20分くらいで行けるスキー場もあった。そこは、北海道知事公館の敷地である。
当時の知事公館の塀は、あちらこちらが壊れて、穴だらけだったため、どこからでも入れたのである。塀の隙間から入って知事公館の中庭の坂でスキーをして遊んだものだった。

塀が壊れていたのは、知事公館だけではなく、北大植物園もそうだった。ある夏の日に、十数名の子供同士で、植物園の塀の穴から入り、正門から出ようとした。そのとき、管理人が不審に思ったのか、入場券を見せるように言われたとき、ビクッとした。

我々子供達は、まさか有料であったとは知らず、あっけにとられた。皆が困っているとき、年長者が「あ、カラスだ!」と叫んで空を指さした。
管理人がつられて空を見たとき、「みんな逃げろ!」という号令で皆逃げ出した。私も一歩遅れて逃げた。

あまりにも馬鹿馬鹿しかったためか、管理人は追ってこなかった。
昭和二十年代、当時、皆、貧乏であったから遊び道具は自分で造る。目的地までは歩く。危ないときは逃げる。そして、どこまでも走る。「造る、歩く、逃げる、走る」、それが私の少年時代であった。

先日、家族で、京王プラザホテルに行って、和食のフルコースを食べたが、昔はそのようなことなど考えられなかった。

「さっぽろ昔話」第四部 終わり
 
写真集  写真集 昭和の札幌T
 蘭島海水浴場 (向かって右が私、左が弟)
<第六部> 『少年少女合唱団』
 《昭和30年代前期》 学校から家に帰ると、どこからか、カチカチという拍子木の音が聞こえてきた。紙芝居である。
今はテレビという文明の利器があるためか、紙芝居は廃れてしまったが、当時、紙芝居は、子供の私たちにとっては楽しみの一つであった。

弁士のおじさんは、紙芝居をしながら飴を売って、その売り上げを生活の糧にしていたようであった。クルクルと巻いた形の飴で、正式名称は忘れたが、1個5円であったことは記憶にある。
しかし、私の家は貧乏であったため、その5円の小遣いがもらえなかった。
仕方なく、手ぶらで紙芝居を見ようとすると、弁士のおじさんから「只見は後ろだよ」と言われた。私や弟、妹はいつも後ろだった。そもそも5円というお金は、私達にとって大金であり、当時は、一日分の小遣いに相当したのである。
自転車の荷台に積まれた小さな芝居小屋は、子供の夢を運んでやってきて、そして、私たちの成長とともに、いつの日か消え去った。

さて、ある日、母親は、こともあろうに、この私をNHKの「少年少女合唱団」に入団させようとしたことがあった。
母親は、女学生時代に、皇族や華族の前で、小学校を代表して合唱に選ばれたことがあり、いまでも、その時の写真を自慢げに見せる。

そのような母親だから、なんとかして、私を少年少女合唱団に入団させ、将来は歌手としてデビューさせたいという夢があったのかもしれない。
もし、私が歌謡界にでも入っていたら、近頃、流行っている国籍不明の歌など、世の中に出現しなかったに違いない。
字幕スーパーが出なければ、その歌詞さえ聞き取れず、何を歌っているのか、さっぱり分からないような歌は、日本の文化を破壊すると思うのであった。

しかし、母親の夢破れ、NHKの少年少女合唱団からは「現在募集しているのは女子のみです」という返答があったそうだ。おそらく、体よく断られたのであろう。
その後、母親が自慢する私の美声は、小学校の学芸会などで披露されることになった。
ところが音楽の時間、面白くないことが一つあった。それは器楽合奏の時、私は、いつまでたっても小太鼓で、女性教師のお気に入り(そう思っていた)が大太鼓を叩いていたことである。
それでも私の小太鼓は、子供ながらカスタネットや縦笛よりも優越感があったのは事実である。
このような文章を書いていると、どこからか「アテネのまちまちトルコの兵隊すすむ」と、トルコ行進曲が聞こえてくるような気がする。

先生のお気に入りといえば、女性教師と私の家族が島松まで、スズラン狩りにいったことがあるから、クラスの生徒から見れば、私も女性教師のお気に入りの一人であったのかも知れない。

女性教師が1週間ほど旅行でいなかったことがあった。そのとき代わりとして担任を受け持ったのも、若い女性教師であった。この先生は、小学校4年生から我がクラス担任になるが、意外な別れ方をしなければならないことになる。
やがて、クラス担任の女性教師が、旅行から帰ってきた。授業が始まるとき、クラスの生徒全員に、お土産の飴を1個ずつくれた。
飴を味わうのは短い時間であったが、楽しいひとときだった。そして、たいへん美味しかった。

今でも、思い出として残っているのは、楽しかったことや辛かったこと、そしてお金の事や食べ物のことが多い。これも貧乏であったからだと思う。貧乏がべつに苦にはならなかったのは、何故だか分からない。
私にも欲しい物があったが、はじめから買ってもらえないと思っていたから、ねだるだけ無駄だと考えた。男は無駄なことはしないものである。
その後、一番欲しかった自転車を買ってもらえたのは、私が小学校5年生になってからである。
それまでは、祖父の自転車を乗り回した。
26インチというサイズは、子供の私には非常に大きく、ペダルに脚がとどかないため、横乗りで乗った。
小学五年生の頃、ようやく買ってもらった自転車は、近所の子供達で交代して乗って遊んだ。
当時は、いくら自分の物であっても、独り占めは許されなかったし、皆で遊ぶことにより、仲間外れにならず、自分の立場を強化し、交流を深められることにもなったのである。

「さっぽろ昔話」第六部 終わり
 
火葬炉の欠番の回答は「9番」です。

写真集  写真集 昭和の札幌T
カウンター
2015/10/13

敗戦から70年 ★写真集「我が家の大東亜戦争」

 北支派遣軍の一兵卒だった父は復員後、佐世保で約半年間、軍部の残務整理と、占領軍(米軍)の通訳に従事、昭和21年に札幌に帰省し結婚した。
近況報告
 
初秋の札幌の夜景(夜9時頃)
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主催 元北海道大学 文部科学技官 石川栄一
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